15年目の閖上地区

本団体は東日本大震災で発足しました。NPOとなり現在の活動の担う学生たちは当時の支援対象であった子どもたちも少なくありません。能登支援の前代表の岩槻さんは気仙沼市大谷小学校卒業生。大谷小学校は学びーばがはじまった小学校です。2012年、小学生一年生だった岩槻さんも学びーばに参加する子どもたちの一人でした。
現代表の気仙沼出身の大学生です。現在宮城県名取市にある尚絅学院大学に通う大学生ですが、大学でも東北の支援活動を担っています。東日本大震災から15年、最後の震災の記憶もつ世代の彼ら彼女らの活動を紹介させてください。

 2026年3月11日。宮城県名取市閖上地区を訪れた。津波の高さは約6m。住民の17%の方が犠牲になった地区であると証言で聞いた。

私が普段訪れる閖上地区は、朝市などで観光客が訪れたり、地域行事では住民だけでなく、私が所属する尚絅学院大学ボランティアチームTASKIを含む外部の人たちでにぎわったりする地区である。地区会長さんを中心とし、とてもコミュニティが結びついている雰囲気が感じられる。

しかし、15年目の3月11日はいつもと違う雰囲気を感じた。
 昔から一つの住民の場所である日和山公園。その近くには名取市震災メモリアル公園がある。慰霊碑の高さは当時の津波の高さを示している。慰霊碑の目の前には献花台が設けられており、私も献花し祈った。もちろんそこには家族や親戚、友人を失った人々がいる。石碑に掘られた故人の名前を見つけ、手でなでる様子。とても心が苦しんだ。15年という月日が経っても哀しみというものはそう簡単には途絶えないものだと感じた。
 黙とうの時間。14:46のサイレンと共に多くの人は海岸方向へ黙とうをした。ここから数分は静かに犠牲者を弔うことで多くの人は気持ちがいっぱいだっただろう。
 当時の記憶がある人だけではなく、幼かった子、産まれていない子、東北以外の都道府県、外国人の姿も多くみられ、広く震災に向き合っている印象を受けた。

この日を迎えると、おもい雰囲気を感じる。だが15年目の閖上地区は違った。再開を喜ぶ人、当時の様子を心開いて語る人、キッチンカーで料理を提供する人、普段のように何気ない会話をする人。私が関わった全ての住民は前向きでいた。ある程度の月日が経ったということももちろんある。そして、壊滅的な状況から復興を進め、震災をきっかけにコミュニティが分厚くなったことが影響していると私は考えた。

 まだ人々の記憶は断片的だ。当時の状況から考えるとあたりまえのことだと思う。車で乗せてもらった人は一体誰で、その人が他の人を助けに行ったきり津波から助かったのかも分からないという女性もいた。だからこそ、一人ひとりが語り部となって伝えていくことが後世に伝える時に大切なことだと感じた。

私は将来、教員を目指し大学の卒業研究では防災教育についてまとめていきたいと考えている。震災を経験した自分、人、地域から子どもたちに伝えていきたい。デジタル媒体でもだが、語り部などの証言を「聞く」、大川小、門脇小、荒川小などの震災遺構を「見る」のように身体全てを使って震災の恐ろしさを学び、復興への前向きな歩み方について心に秘めてほしい。
 最後に東北、そして能登半島。私にとって大切な場所であることを伝えたい。
 2026年3月1日現在、死者は1万5901人、行方不明者は2519人(毎日新聞)

                                    能登学びーば 二代目代表 遠藤亮汰

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